Interview
やっていることはまるで刑事や探偵?
遺跡から「ヒト」の姿を想像することで見えてくる本当の過去
同志社大学 文化情報学部 文化情報学科 准教授
津村 宏臣 先生
“モノ”を解析し、そこにある“物語”をよみがえらせる
私は研究調査で海外に行くことも多いですが、海外の文化財はその場所に住む人たちが自ら保存し、自分たちの存在につながるものとして大事に守っています。 一方、日本では「文化財保護法」という法律によって対象を守っています。この一見先進的な制度の裏では、地域の文化財に対しての関心が薄くなっている、そんな危機的状況があります。
例えば、皆さんは教科書に出てくる遺跡の名前や神社・お寺の名前は答えることができると思いますが、自分が「お祭りに行く神社」や「法事にお経をあげてもらうお寺」にどんな神様や仏様が祀られているかを知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。さらに言えば、それを知りたいと思っても、その神様や仏様がどうしてその場所に存在するのか、どんな役割を果たしてきたか、ほとんど知る術がないわけです。けれども、それらは知らなくていい情報なのか?と聞かれたら、自分自身にまつわることを「知らなくていい」と答える人は、ほとんどいないと思います。それなのに、実際にはほとんど知られていない。言い換えれば、文化や歴史が「自分ごと」になっていない状態なのです。
私が現在進めている研究は、日本国内だけでなく、世界のさまざまな地域で当たり前に存在している文化に目を向け、その文化をつくってきた“モノ”を解析することで、そこにある物語をよみがえらせることです。そして、地域の人たちに「自分ごと」化してもらう。自分の文化について考えたり、想像したり、そうしたことが当たり前にできる世界を目指して、そのための技術や方法、理論を構築しようとしています。
よく「歴史は勝者によって描かれる」と言われますが、私は「歴史を描こうとし続けた者が、結果として勝者だった」のではないかと考えています。自分が何者で、この場所がどんな場所で、なぜこんなことを考えたり、そんな風に行動したりするのか、自分の言葉で語り伝える能力が歴史や文化を描き続けるのに必要なのだと思うのです。
石器の破片が遺跡の遠い場所から見つかるのは
「怒って投げちゃった」から?
私が興味を持っているのは、石器の出土位置からそれを製作した人間の動作や所作を復元したり、それに関連する当時の行動様式を明らかにしたりする人類学的な視点での研究です。(考古学の基本である、遺跡から出てくる土器や石器を古い順番に並べることには全く興味がありません。)例えば、石器は一つの石を打ち砕いてたくさんの石の道具をつくるわけですが、その材料が途中で折れて、破片が遺跡の遠い場所から見つかります。すると私は「あ~、頑張ったのに失敗して怒って投げちゃったなぁ」などと、何万年も前の人の姿を思い浮かべるのです。過去の時空間を『ヒトの行動』によって彩色していくのは、理論的にも実践的にも面白い作業で、証拠だらけの現場から事件を類推して解決する、探偵や刑事のような仕事です。
見える「過去」は同じでないといけないのか
私は“みんな教科書で学んだから”、ではなく、同じことを考え、経験した人々だからこそ、同じ「過去」をつくるのだと思うのです。先ほどの離れたところから見つかる石器に対して、『怒ったから投げちゃった』と考えるのは、今を生きる私が「腹が立ったから腹いせに何か物を投げとばす」から、そんな「過去」になるということ。現代に生きる私がそのような行動をしなければ、『怒ったから投げちゃった』にはならないですよね?
問題は「そうした考え方が科学的なのか」ですが、科学とは“方法論的再現性の担保によって補償される方法”ですから、私と同じように「何かを腹いせに投げ飛ばす」という人が他にもいれば、その行動は再現性がある=科学的な考え方であるということになります。だから、人類学者は現代でも過去でも時空を越えて“同じようなサンプル”を求めます。この“同じようなサンプル”こそ「文化」から抽出でき、その情報を科学するのが、文化情報学という学問です。人類学的にいえば、文化から抽出されたサンプルは「多様なヒトそのもの」。そのサンプルが教科書に載っている集団だけでは、多様な、オリジナルな、素敵な物語は見えてきません。
現在の歴史学や考古学の危うさは「事実は1つしかない」という科学観へ突き進んでいることにあります。戦後の歴史学は、自分や地域の言葉で「歴史や文化を描く」ことを拒否し続けてきました。戦前の歴史学の反省だと思いますが、それは「描いた歴史や文化」に誤りがあっただけで「方法」が誤りなのではない。教科書で描かれていることは“誰のモノでもない1つの事実”だと知り、その分析方法を学んで、「さぁ皆さんも自身の言葉で歴史や文化を描いてみましょう」というのがあるべき教育だろうと思うのです。
大学という場所は、膨大にある“正しい事実”という世界に向き合い、その中で経験と洞察力と類推力をフルに発揮して、それらが、「歴史や文化」の中で正しい事実になる方法的再現性を探究する場所です。その答えは、どこにあるか、その力はどこで養うのか。教科書の中にはないことはおわかりだと思います。先生と教科書は、その「方法」を教えてくれる。その方法を身につけて、大学で無限の正しさと対峙する。私の研究室では、いつもこうした知の格闘家たちが奮闘していますし、大学とはそういう場所だと考えて、受験を乗り切って下さい。自分が何者か、その結果が、正しい世界になる。それが大学の知のフィールドです。世界に一つだけの“世界”への旅へ、皆さんがお越しになるのをお待ちしています。
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