人柄が悪くなる研究!?
言葉の裏の意味を徹底的に考える

早稲田大学 名誉教授 (元 教育・総合科学学術院 教育学部)
石原 千秋 先生


夏目漱石の小説のまちがい?

僕が行なっているのは、日本の近代文学のなかでも特に漱石文学の研究です。ただ、作者の意図を考慮に入れない(他人の意図がわかる方がおかしいと思っています)テクスト論という立場を採ってもいるので、村上春樹をはじめ何でも論じます。テクスト論では、たとえばこう考えます。漱石の『こころ』なら、〈先生〉は遺書の終わりで「なるべく公表しないで」という意味のことを書いているのに、〈青年〉は〈先生〉の遺書を公表するつもりで「手記」を書きはじめています。これを「漱石のまちがい」と考えれば、それで文学は終わりです。この一見矛盾に見える二つの言葉と事実の意味を、漱石を離れて徹底して考えるのが、テクスト論の立場です。
もっとも、テクスト論に命を賭けているわけではないので(文学研究には命を賭けています)、最近は時代背景を参照しながら、漱石文学がどう読まれたかかというテーマにも関心を持っています。その時に、「作者の意図」みたいなことにも触れることがあります。もちろん、それは想像か空想だと思っています。

男女交際の方法がわからない男たち?

漱石文学の男性主人公たちは、自分のことが自分でわからないので、自我が不安定です。そこで自分を愛してくれる女性がいれば自我が安定すると思い込んでいます。自己の存在証明を他者に求めているわけです。しかし、上層階級で男女の恋愛が遊戯のように盛んに行われた平安朝文学以来、男尊女卑の思想に染められた武士の世が数百年続いて、上層階級の男女は男女交際の方法を忘れてしまいました。一方、明治維新以後、高等女学校で公的な教育を受けた女性が身近に存在する事態を、日本の歴史上はじめて経験しました。これでは、男女交際の方法がわかるはずがありません。その結果、漱石文学のみならず、近代文学では「女性の謎」がテーマであり続けました。本当は自分がわからないのですが(私には「自分がわかっている」と信じている人が不思議です)、女性がわからないのだと信じ込んで、「自分という謎」を「女性の謎」に置き換えてごまかし続けたのが近代文学の歴史です。
いまは、これに資本主義が深く関わっていると思い始めて、「文学と資本主義」というテーマでも研究をしています。

失恋がきっかけで、文学研究に興味をもった

僕がこのような文学研究の道に進んだのはなぜか。理由は単純です。浪人時代に手痛い失恋をしたとき、漱石の『彼岸過迄』を読んでいたら、千代子という若い女性が市蔵という幼馴染みをなじる場面があって、「ああ、漱石は女性の怖さを実にみごとに書いている」と思ったからです。これをきっかけに文学研究に興味をもち、現在に至ります。
僕が行なっている文学研究の面白いところは、言葉の裏の意味を徹底的に考える思考が身につき、人柄が悪くなることです。演習を履修した学生は、友人に「最近、人柄が悪くなったんじゃない?」と言われることがあるそうです。けれど、「優しくなければ生きる価値がない、人柄が良くなければ生きていけない」というフレイズはありません。だから大丈夫ですよ。

石原先生からのメッセージ

文学研究者を目指す学生、大学院生にはこうアドバイスしています。「研究職に就く早道は、論文を書くのではなく、ベストセラー小説を連発して文学と文学部を復活させることだ」と。小説を読んでね。

(取材日:2023年10月)

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